広野駅にて
(常磐線/福島県双葉郡広野町)



震災により大きな被害を受けた路線の一つ、JR常磐線。津波の破壊力は私たちの想像を超え、また復興計画を巡って様々な意見があり、2011年10月現在までに復旧したのは一部区間にとどまっています。

くわえて、福島第一原子力発電所の事故に伴う放射能の大量放出という事態を受けて、原発の周辺地域は避難や屋内退避、避難準備などの指示・勧告が出され、避難指示地域以外の復興にも大きなブレーキとなりました。避難準備区域であった広野町の区域指定が解除された後、既に5月に復旧していた久ノ浜から広野までが開通したのが10月10日。しかし、広野の先の木戸駅の手前から北は警戒区域内のため、立ち入りが出来ない状態が続いています。JR東日本も、原発の状況が収束しない限りは、広野駅が南側の終着駅という状態が続くとしています。



いわき駅にて、広野行きの電車。もともと広野終着の列車がなかったため方向幕がなく、行先表示は「普通」となっています。



14時4分に発車した列車は25分で広野駅へ。久ノ浜駅までで乗客がほとんど降り、私の乗っていた車両は他に誰もいなくなりました。沿線の海沿いの地域には壊れた防波堤、土台だけ残った家の跡、幹だけになった枯れ木が見えました。


広野駅に降りました。元来は駅舎側に一本、跨線橋を渡った島式ホームに二本の乗降場がある構造でしたが、広野駅で折り返し運転が当面続くため、駅舎側から間の線路の列車に橋を渡らず乗れるように仮設ホームが設置してあります。




向かって右側に駅舎があります。跨線橋はロープで封鎖されていました。





正面から見た駅舎。駅舎側ホームには童謡「汽車」の碑があります。




折り返しの列車を見送った後、次の電車まで2時間ほど間があったので、時計を見つつ木戸方面へ足を進めました。

津波の直接の被害は線路西側では見つけられませんでしたが、塀や瓦が壊れているのはいくつか見かけました。ただ、写真を撮るのは躊躇われました。

家々にはぽつぽつと、戻って生活をしている方の姿や自家用車が見られました。また、原発対策の現地作業拠点が近くに集中しているため、業務用・作業用の車両や大型バスなどはかなり頻繁に国道などを行き来しています。しかし、道を歩く人は極端に少なく、車通りのないときは静まり返っていました。


左:広野−木戸間の跨線橋から、木戸駅方面を眺めます。立派な複線で、ひょっとしたら震災後に替えたのではと思うくらい新しい枕木も見えます。右:同じ橋から、広野駅方面へ伸びる線路の上には、草が領域を広げ始めていました。



駅へ戻った頃には夕闇が迫っていました。



待合室の時刻表。広野から仙台までの区間は白い紙で覆われています。




ホーム北端から。信号は、おそらく一日中赤のままです。

右奥に見える2本の煙突は東京電力広野火力発電所のもの(その前の白い建物よりも遥か遠くに聳えています)。夏の早い時期にここが復旧し、南の首都圏に電気を送り続けたことで、首都圏の停電の恐れは大幅に低減されました。




発車を待ついわき行きの電車。
訪れた時間が遅すぎたため、ほとんどどこも見られないままでした。



原発の収束には10年単位の時間がかかるのではないか、と予想します。
津波によって、家々・企業などとともに多くの鉄道が壊滅的被害を受けたことはとても残念なことです。しかし、それとは別に、放射能汚染が原因の休止線が日本で生まれたことは、廃線を見てきた私にとって大きな衝撃でした。

沿線は、豊かな山河にあふれた土地です。放射能汚染が住む人から土地と暮らし、そして心の拠り所を奪い、また放射能汚染に対する姿勢・施策を巡ってさまざまな対立や分断が日本全土で生まれつつあります。

しばらく定期的に、この路線周辺の様子を見ていきたいと思っています。


(2011年10月19日撮影)


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