(旧)晋三線の現在 その2・泗川−三千浦間


■泗川駅周辺(写真なし)

上の写真をとった後、バスで泗川邑のバスターミナルまでショートカットしました。途中車窓から現・泗川駅のレンガ壁の駅舎が見えました。駅舎前の広場は一般道に面していて、大韓通運(日本で言う日通)の事務所の建物なども見えたのですが、両脇には高い塀と鉄条網で囲われた貨物スペースがありました。
駅から歩いて2,3分の所に泗川空港(民間用)の建物があり、さらにそこからちょっと離れたところには空軍基地の入口があって迷彩服の兵士が警備に立っていました。



泗川駅南方の廃線(泗川市泗川邑)

泗川駅の南方に、わずかな区間だけ、列車の通らない鉄路が残されていました。駅の近くをうろうろするのは問題があるかと思い、築堤が道路で切断されているところからわき道を登って様子を見てみました。
この写真は泗川駅舎方面を眺めたもの。


本来ならば廃線なので、築堤の上に上って撮るところなのですが・・・
登ってしまうと、泗川空港を見下ろす位置に立ち、しかも空軍基地の入口の守衛所から丸見えになってしまうという大きな障害がありました。
仕方なく築堤の下から・・・とりあえず赤錆びた線路が残っているのはお分かりいただけると思います。




築堤の先端部。この先は道路になっていて、その向こうには泗川空港に隣接する(というより一緒に存在する)空軍基地の建物があります。


上の写真を拡大すると・・・レーダーが写っています。ギリギリです。



その先端を道路側から撮ってみました。木が邪魔して見えにくいですが、木の後ろの枯れ草の部分が築堤で、脇道により切り取られています。
昔の地図で見ると、本来の泗川駅はこの築堤よりも先(南)の、現在の空軍基地の用地内にあったようです。1987年に泗川市街地の一部で軍用地としての収用のために一つの集落が集団で移転したとの記録があり、泗川駅もこの際に移転したのではないかと推測されますが、記録はありません。現在の位置に駅舎が整えられたのがいつなのかは定かではありません。

・・・ちなみに、この写真は空軍基地入口を背にして撮りました。いっぺん呼び止められるかとも思い、説明の内容を頭の中でこね回していたのですが、何も声をかけられることなくその場をさることが出来ました。ともかくここは、もし呼び止められたときに韓国語で説明する自信の無い場合には全くお薦めできない撮影対象です(苦笑)。






泗川−三千浦間(写真なし)

 泗川−三千浦間について、1980年10月にに運行を休止してからしばらくの間どうなっていたのか文献では分かりませんでした。ただし、1987年12月に国道としての道路整備が始まった事は旧三千浦市が編纂した「三千浦市誌」(1994)に記されています。
 泗川にバスで着いてから旧線跡を探して見当違いのところをさまよってしまったせいで時間が無くなり、この区間はバスで通ることになりました。バスは旧線上に整備された道路ではなく昔からある国道を通りましたが、途中から並行して走る旧線後の道路を眺めることが出来ました。
 ただし、この区間はおおむね平坦で、路盤の高さが両脇の道路から一段高くなっているところが旧線跡らしいといえば言えなくも無い、という程度でしょうか。ただ、一部の小川を渡るところではアーチ状のコンクリの橋が鉄道の跡を留めていました。もしもう一度行く機会があれば写真に収めたいところです。


三千浦市街

 三千浦市街は泗川市の中心です。「三千浦[サンチョンポ]」はこの区域が旧泗川郡から独立していた頃の市名ですが、合併して「三千浦市」という行政団体名が無くなり泗川市の中心地になった今も(港の名前である)三千浦という通称が一般的です。
廃線跡については、これが残念ながらそれらしき痕跡はほとんど出会うことがありませんでした。もう少し下調べをしてから現地に入ればよかったかという反省もあります。


そんな中でほぼ唯一、それらしき(それでも疑わしいですが)痕跡を見つけたところ。道路の向かって右側、崖と道路との間にわずかな間があります。この道路を作るために左側の山を削ったのなら不自然な空間です。


細長い空間は次第に幅が広がっていました。崖面が終わって土地が開けている先の所にも、道路際なのに建物が建っておらず畑のまま、という辺りも不自然です。
 そして、その先は低層の団地が建てられています。連想したのは全羅線の旧徳津駅跡(全州市内)で、そこも駅の構内の一部が現在は団地になっています。・・・貧弱な状況証拠でしかありませんが、もしかしたらこの辺りに三千浦駅、もしくは三千浦港の貨物ヤードがあったのではないか・・・と、推測してみました。
ただし当時の地図などをまだ参照できていない状況なので、全くの勘違いである可能性も高いのですが・・・





今回の踏査は、前半(1/3)は廃線ではなく、後半(2/3)は道路になってしまっているという、終わってみればなんとも間の抜けた結果になりました。
このままだと見た目にも格好がつかないので、是非もう一度訪れて泗川−三千浦間でいろいろ探して見たいと思うのですが、余り成果はないかもしれません。
 「三千浦市誌」には鉄道の廃止に関する記述の最後に「・・・(鉄道を廃止して道路が開通したことにより)我が地域の交通難の解消に大きく寄与しているが、港湾都市への発展指向的側面から見るとき、残念な面を残しもした」とありました。鉄道と都市・地域の発展は多かれ少なかれ常に切り離せない課題ですが、港湾都市ということになると殊にその影響は大きいと思います。ただ、この三千浦港の今後と鉄道の不在がどう関わってくるかまでは単なる鉄道関連の視点だけでは推し量れません。


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