潭陽−金池間の未開業線の総延長は38.6km。幾つかの橋と、二つのトンネルを含む工事は淳昌を境に2工区に分けられ、日本の建設業者が請け負って路盤を完成させました。線路は開通することなく朝鮮半島は解放を迎え、ここに線路が敷かれる事の無いまま、今日ではあるところは道路に生まれかわり、あるところは崩されて痕跡を失い、あるところでは無用の長物となってその形を留めています。
調査中にこんなことがありました。徒歩で訪ねたある地点で、未成線の軌道跡と思われる場所を行ったりきたりして撮影していたとき、そこから少し離れた農家の庭先からじっとこちらを見ている方がいました。こちらのことを不審に思っているのだろうなと思い、また、この痕跡が本当に未成線の跡なのか今一確証が持てなかったこともあったので、不信感を解くことも合せてそのことについて尋ねてみる事にしました。
その、70代くらいの男性は、確かにここが鉄道の建設跡地だったと証言して下さいました。「ようするに軍用の非常道路だ」という表現をされていました。この方がちょうど小学生の頃だったといいます。
せっかくなので、こちらの身分を明かし、前から気になっていたことを聞いてみました。この鉄道建設の労働の実態についてです。実は、北海道の鉄道建設などからの連想で、もしかしたら強制労働のようなものが行なわれていなかったか、と気になったことがあったのです。
で、尋ねてみましたが、この方の知る限り(当時まだ子供だったこともあるでしょうが)そうした事はなく、いわゆる一般の土木工事として進められたそうで、現地の、全羅北・南道の人たちが“ノガダ”(日本語の「土方」が韓国語に入ってなまった言葉)として働いていたそうです。ただし、“オヤジ”(同様に日本語から)はかならず日本人だった、とも。「長」のつくのは何でも日本人だった、ともおっしゃっていました。
そして私は確か、こうやって建設されたのに現在全く利用できないことについてどう思いますか、というような質問をしたと思います。そのお年寄は「そりゃあ残念さ。目の前にあるのに使えないんだものな」ということをおっしゃった後、さらに続けてこう言われました。
「日本の敗戦があと一年遅れていたら、この鉄道は開通していたただろう」
私は現地で、このような言葉を聞くことを予想していませんでした。
事実のみをみれば、鉄道ができていれば、その沿線の地域は今よりも便利になっていた事はおそらく確かでしょう。いつの時代であれ、生活が便利になることは常に庶民の願いの一つです。実際、以前にも別のところで書いていますが1980年に刊行された『淳昌郡誌』の巻頭に収録された郡の略地図では、この未成線が「未開業鉄道」として鉄道の記号で記入されています。
だからといって、日本政府は(当然ながら)別に現地の人々のためを思い、この路線を建設しようとしたわけではありません。証言にもあったように、また各資料の年表を見ても明らかなように軍事的観点から輸送力の増強と非常時の備えの拡充を図ったものです。また当時の給与体系を表した表を見ると、日本出身者と朝鮮出身者との間には同じ職位でも給与額に画然と格差が設けられていました。
前述の「もし日本が…」の発言は、私の質問が若干誘導的であったといえるかもしれませんが、たぶんあの男性は、同じ韓国人に対して、特にメディアで発表されるようなインタビューだったなら、前述のような発言は決してしないのではないかと思います。一方で、この人物も含め、例え相手が誰であろうと「もし、あと一年負けるのが遅ければ」とは言っても、「もし、日本が負けなければ」などと言う韓国人もまた、どこにもいないでしょう。
今でも、私の中では、あの農家の軒先で聞いた幾つかの言葉についてのいろいろな考えが、時おり頭の中を回っています。「韓国の廃線」、特に植民地支配期に関係している廃線を扱う限り、それはずっとついて回ることなのでしょう。そしてそのことは私が、この分野に関心を持ち続ける要素の一つにもなっています。
|