■旧「慶全線」潭陽−金池・未成区間■

全羅線金池駅付近に痕跡を探る


 金池[クムジ]駅は全羅線の南原と谷城駅の間にある小さな駅で、今では一日一往復の特定統一号(≒普通列車)しか停車しませんが、かつてはこの駅が順天・麗水方面へ南下する全羅線と、光州・木浦方面へと繋がる“慶全線”(当時)の分岐駅と目されていました。
 駅はその全体が全羅線の軌道改良工事によりすっかり新しくなり、往時を偲ぶものは見つけられそうにありません。しかし、駅から南へ少し離れた蟾津江のほとりには“慶全線”の建設がここでも進められたことをかすかに示す遺構を見出すことができます。





前ページ(帯江−金池間)の最後の写真の撮影地点から少し進んだところから眺めた、全羅線の橋。
手前にある灰色の橋が、現在の全羅線の橋で、この部分は既に複線になっています。そして、その奥、やや下方に見える赤い橋は、改良工事の前まで供用されていた旧線の鉄橋です。



 軌道跡に造られた道路を歩いていくと、いつの間にか右手の方に築堤の残骸らしきものが現れました。この写真だと見難いのですが、枯れ草が黒っぽくなっている辺りが不自然に盛り上がっています。これがしばらくつづきますが、ある地点からは築堤跡は切り崩されて均されてしまったらしく、痕跡は見当たりません。 


それでもしばらく進むと、築堤跡を利用したと見られるある施設にたどり着きます。


 築堤の端が切り取られて石とコンクリートで固められ、上には小さな貯水槽が造られています。これは農業用水路の用水施設の一部のようで、写真右端にある小屋がすぐそばを流れる蟾津江から水を汲み上げる揚水ポンプ室になっています。
未成線跡と思われる築堤はその先、画面左側に向かって続いており、その上に用水路が掘られています。 



 貯水槽の脇に上り、その先を眺めると、右手には全羅線の新旧の橋が見えます。 


 水路の脇の築堤の上をしばらく歩き、振り返って撮影したところ。カーブの具合が、いかにも鉄道の軌道跡という感じがします。 


 やがて、一度は未成線と別れた、帯江からの道路と再び交わる地点で振りかえって、築堤を眺める。
かなり立派な築堤であることがお分かりいただけるかと思います。 


 合流地点から全羅線の軌道を眺める。高低差があるのは、改良工事で橋の建設にあわせ路盤がかさ上げされたためです。





全羅線旧線の鉄橋


 ここで、周辺の遺構や現在の線路の位置関係を図示してみようと思います。

金池駅付近略図略図の上が、大体北だと考えてください。
金池駅から、だいぶ南の蟾津江の手前までの地点のどこかで、未成線の軌道跡が全羅線から分かれていたと見られますが、分岐地点自体は痕跡が見当たりませんでした。
 道路を挟んで、緑色の線が築堤の痕跡で、その上に用水路が掘られています。
 築堤の痕跡は揚水施設の手前で途切れますが、図より外側の帯江方面にしばらく進むと再び現われ(用水路にはなっていません)、その後は並行する道路と合流するような形になっています。



全羅線金池−鴨緑間は1998年までに路盤改良工事が完成し、蟾津江に架かる旧線の鉄橋もそれに伴って供用から外されました。2003年2月の時点ではまだ、橋梁も、その上のレールも残されていました。



左:金池側の堤防の上、旧線の側から眺めた旧線の鉄橋
右:橋のたもとから見た旧線の鉄橋。右側に建つ現在線が、橋を渡るとそのまま山をトンネルでぶち抜いているのに対し、旧線は橋を渡ると山塊を迂回して左にカーブしていた




金池駅



金池駅の正面。道路や周辺の建物の位置から見て、元あった駅舎と同じ位置に新しい駅舎が建てられたようです。もはや旧駅の遺構の発見はほとんど期待できないとみていいでしょう。


駅から線路に沿って蟾津江の方向にやや行った辺りの線路際から駅の構内をのぞく。すっかり新築されたホームに植民地時代の面影は感じられません。


同じ地点から、橋の方を眺める。
正面の左側にある旧線の鉄橋も、右側に残された未成線の遺構も、ここからは見えませんでした。







潭陽−金池間の未開業線の総延長は38.6km。幾つかの橋と、二つのトンネルを含む工事は淳昌を境に2工区に分けられ、日本の建設業者が請け負って路盤を完成させました。線路は開通することなく朝鮮半島は解放を迎え、ここに線路が敷かれる事の無いまま、今日ではあるところは道路に生まれかわり、あるところは崩されて痕跡を失い、あるところでは無用の長物となってその形を留めています。





 調査中にこんなことがありました。徒歩で訪ねたある地点で、未成線の軌道跡と思われる場所を行ったりきたりして撮影していたとき、そこから少し離れた農家の庭先からじっとこちらを見ている方がいました。こちらのことを不審に思っているのだろうなと思い、また、この痕跡が本当に未成線の跡なのか今一確証が持てなかったこともあったので、不信感を解くことも合せてそのことについて尋ねてみる事にしました。
 その、70代くらいの男性は、確かにここが鉄道の建設跡地だったと証言して下さいました。「ようするに軍用の非常道路だ」という表現をされていました。この方がちょうど小学生の頃だったといいます。
 せっかくなので、こちらの身分を明かし、前から気になっていたことを聞いてみました。この鉄道建設の労働の実態についてです。実は、北海道の鉄道建設などからの連想で、もしかしたら強制労働のようなものが行なわれていなかったか、と気になったことがあったのです。
 で、尋ねてみましたが、この方の知る限り(当時まだ子供だったこともあるでしょうが)そうした事はなく、いわゆる一般の土木工事として進められたそうで、現地の、全羅北・南道の人たちが“ノガダ”(日本語の「土方」が韓国語に入ってなまった言葉)として働いていたそうです。ただし、“オヤジ”(同様に日本語から)はかならず日本人だった、とも。「長」のつくのは何でも日本人だった、ともおっしゃっていました。

 そして私は確か、こうやって建設されたのに現在全く利用できないことについてどう思いますか、というような質問をしたと思います。そのお年寄は「そりゃあ残念さ。目の前にあるのに使えないんだものな」ということをおっしゃった後、さらに続けてこう言われました。
 「日本の敗戦があと一年遅れていたら、この鉄道は開通していたただろう」
 私は現地で、このような言葉を聞くことを予想していませんでした。

 事実のみをみれば、鉄道ができていれば、その沿線の地域は今よりも便利になっていた事はおそらく確かでしょう。いつの時代であれ、生活が便利になることは常に庶民の願いの一つです。実際、以前にも別のところで書いていますが1980年に刊行された『淳昌郡誌』の巻頭に収録された郡の略地図では、この未成線が「未開業鉄道」として鉄道の記号で記入されています。
 だからといって、日本政府は(当然ながら)別に現地の人々のためを思い、この路線を建設しようとしたわけではありません。証言にもあったように、また各資料の年表を見ても明らかなように軍事的観点から輸送力の増強と非常時の備えの拡充を図ったものです。また当時の給与体系を表した表を見ると、日本出身者と朝鮮出身者との間には同じ職位でも給与額に画然と格差が設けられていました。

 前述の「もし日本が…」の発言は、私の質問が若干誘導的であったといえるかもしれませんが、たぶんあの男性は、同じ韓国人に対して、特にメディアで発表されるようなインタビューだったなら、前述のような発言は決してしないのではないかと思います。一方で、この人物も含め、例え相手が誰であろうと「もし、あと一年負けるのが遅ければ」とは言っても、「もし、日本が負けなければ」などと言う韓国人もまた、どこにもいないでしょう。

 今でも、私の中では、あの農家の軒先で聞いた幾つかの言葉についてのいろいろな考えが、時おり頭の中を回っています。「韓国の廃線」、特に植民地支配期に関係している廃線を扱う限り、それはずっとついて回ることなのでしょう。そしてそのことは私が、この分野に関心を持ち続ける要素の一つにもなっています。






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