■旧「慶全線」潭陽−金池・未成区間■

旧潭陽駅−金城面


旧光州線の終着駅である潭陽[タミャン]からは、さらに東(北東)へ向かって延伸が計画されていました。その終着点だったのは、現在の全羅線金池[クムジ]駅です。光州線が国有化された時点からその計画はあったとされますが(歴史的経緯については解説文を参照)実際に工事が始まったのは、戦時体制下の1940年のことでした。
実際のところ、あとは線路を通すだけというくらいまで工事は進んでいたようです。しかし、日本の戦況の悪化により1943年には光州線の線路の撤去・供出が始まりました。推定ですが、同じ時期に潭陽−金池間も工事が中断されたのではないかと思われます。或いは光州線の供出後も鉄を必要としない工事だけは進められていたのでしょうか?
いずれにせよ、この路線を列車が走ることが一度もなかったのは事実です。韓国の独立後も、地元の願いにもかかわらず未成線は未成線のまま、最終的に鉄道としての未来に終わりを告げることになりました。





潭陽駅の北側は、光州線のその6の4で見られるように、新しい道路によって寸断されています。しかし、その先には未成線の築堤の跡が残っていて、淳昌[スンチャン]・金池の方へと続いていました。

潭陽駅の北方、やや離れたところの国道のそばを走る築堤跡。


やがて築堤跡は道路に沿って走るようになりますが、この辺りに来ると両側から人の手の浸食を受けて幅は半分くらいになっています。
この先、道路にぶつかるのですが、その先は築堤は完全に切り崩されてすぐ横の田んぼの一部になっています。ただ、ところどころにコンクリートの遺構が残されているのみです。






やがて、栄山江の上流の河を渡る地点に差し掛かります。河の手前に残っている築堤跡。


そして、橋脚と橋台の残骸が渡河地点に残されています。


橋脚の列。


内側の土が抉り取られた橋台。

橋脚の周囲に群がる白鷺の群れ



対岸の橋台跡。
現在の堤防はこの橋台よりも川の流れ寄りの場所に築かれています。
そのため橋台は堤防から取り残され、堤防のそばの家の壁の一部として利用されていました。白く見えるのはこの家のパラボラアンテナです。





その先の、築堤の様子。・・・苗木を植えているのが、どういう意図なのかはわかりません・・・


その先、築堤は区画整理の中で消えてしまったようで、痕跡をたどることは出来ませんでした。

ただ一箇所気になったところ。ほぼ直線で構成された耕地の中に妙なカーブを描く用水路がありました。
しかし、この前後には痕跡なし。さらにこの先、金城[クムソン]面の中心地方面には小学校が建てられ、路盤の痕跡など探すべくもなくなっています。




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