光州[クァンジュ]−潭陽[タミャン]間鉄道=(旧)光州線について


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歴史・その1
〜誕生・発展


旧光州線説明図 光州[クァンジュ]−潭陽[タミャン]間鉄道=(旧)光州線は、日本の植民地時代の朝鮮半島の、南西部・全羅南道に存在していたいわばローカル線の一つです。
 光州の西に位置する湖南線の松汀里[ソンジョンニ]駅から、全羅南道の道庁所在地である光州を経て、その西北に隣接する潭陽郡の郡庁所在地・潭陽(現・全羅南道潭陽郡潭陽邑)を結んでいました。現在、西の一部は現存し、使用されていますが、この区間全体を結ぶ鉄道はありません。


 当初、この路線を開業したのは「南朝鮮鉄道株式会社」という民間会社で、この路線が開業した翌年(1923年)に朝鮮内の他の民間鉄道会社5社と合併して当時朝鮮半島で最大の民間鉄道会社「朝鮮鉄道株式会社」となりました。光州−潭陽間は1918年に着工、1922年7月にまず松汀里−光州間が開業し、同年12月に松汀里−潭陽間36.5キロが開通しました。
 名称については、いくつかの資料の間で不一致が見られます。韓国鉄道庁が発行した資料では「南朝鮮鉄道光州線」と「南朝鮮鉄道湖南線」という二つの名称が出てきますが、後者は明らかに国鉄湖南線と混同した誤記だと思われます。また、戦後日本で出版された「朝鮮交通回顧録」(鮮交会)によれば、当時の名称は「朝鮮鉄道全南線」となっています。また、韓国での別の資料(※ページ下の注参照)では、当初の名称は「光州−潭陽線」となっていますが、潭陽郷土文化研究会が1999年に出版した「写真で見る潭陽郡百年誌」において、この鉄道の当時の写真の下に「光州−潭陽間鉄道」と記していることから、開業当初に「全南線」という名称とは別にこうした呼称もあったようです。


韓国全域の鉄道と旧光州線の略図はこちらをご参照ください。なお、この画像の著作権は白い地図工房と本サイトが所有しています。規定によって一切の転載及びその他の著作権に抵触する行為が禁止されていますのでご注意ください。

※光州市内の鉄道の変遷についてはこちらをご参照下さい。


 1928年(昭和3年)、朝鮮総督府の鉄道整備計画に基づいてこの「全南線」(光州−潭陽線)は総督府に買収され、国鉄「光州線」となります。それと同時に、当時一部が開通していた「慶全北部線」(裡里−順天)と、湖南線松汀里駅を結ぶ計画線「慶全線」(当時の呼称)の全羅道部分の一部として位置付けられることになります。昭和七年(1932年)の時刻表を見ると、一日6往復の列車が走り、33〜40分ほどで全南光州(当時)と潭陽の間を結んでいました。


1930年当時の全羅南道の鉄道網  やや話が前後しますが、1930年には、光州と、朝鮮半島の南岸のほぼ中央に突き出た麗水半島の先端の麗水港[ヨス-ハン/れいすい-こう]とを結ぶ「南朝鮮鉄道株式会社」(朝鮮鉄道に合併した、前述の同名の会社とは別の会社)の「光麗線」〔155.5キロ〕が開通しました(左図参照)。鉄道建設と共に新たに作られた麗水新港からは下関とを結ぶ関麗航路が運行され、鉄路と航路により朝鮮半島と日本とを結ぶ新たなルートが確立されました。
 これにより光州駅は、二つの路線の分岐点となります。ちなみにこの南朝鮮鉄道株式会社(当時の通称:「南鉄」)の社長は、甲州財閥の根津嘉一郎(初代)だったと「回顧録」には記されています。この人物は東武鉄道の実質的創設者で、日本ではあちこちで鉄道建設に携わり「鉄道王」と呼ばれていました。

 ※参考:時刻表に見る南朝鮮鉄道20世紀時刻表歴史館より。

ここで左の図を解説します。緑色の線は1930年当時の民営鉄道です。現・慶全線の馬山−晋州間は1931年に当時の朝鮮総督府が買収するまで朝鮮鉄道株式会社の路線でした。
また、現在の全羅線は1930年当時は全州までしか開業していません。南原まで開通したのが1931年、順天まで全通したのは1937年でした(一部後述)。
蛇足ながら、図の左上にちょこっと見えている現・長項線も朝鮮京南鉄道による民営路線でしたが、こちらは解放後の1946年にアメリカ軍政下で施行された、民間鉄道の一括国営化により国有鉄道となっています。
(※図追加:2003年10月16日)


(追記)麗水市発行の「麗水発展誌」には、この鉄道の建設にあたって現地の朝鮮人8名と日本人6名の計14名が、東京の根津嘉一郎の自邸まで建設の嘆願に訪れたこと、それに応じて根津本人が麗水を視察して光麗線の建設が決まったという経緯とともに、麗水を訪れた際の根津ら一行の写真も掲載されています。
 ちなみに「発展誌」には、「南鉄」はその後麗水の土地を安値でまとめ買いし、その土地の販売で儲けようとしたものの、地元の青年会議所の不買運動のため挫折した、というエピソードも紹介されていました。このあたり、植民地支配体制下での各各のせめぎあいの様子が窺い知れて、個人的には興味を引かれます。


(追記 2003.7.27)2003年の7月に根津嘉一郎の出身地である山梨県山梨市を訪ねる機会があったのですが、地元では根津は偉人扱いであるらしく、市内を流れる笛吹川のほとりにある公園には、根津嘉一郎の銅像が建っています。その佇まいは『麗水発展史』に載せられた写真に写っている人物そのままでした。
 また、根津は鉄道以外にもさまざまな事業展開を行い、今日に残るいくつもの企業の創設に関わっていたことについても、公園内の碑文に記されていました。ただし戦前に朝鮮半島で広げた事業については触れられていません。



 開業からわずか5年後の1936年には、南朝鮮鉄道線もまた総督府に全線買収され、国鉄「松麗線」と名前を変えます。これにより、本来の「光州線」の松汀里−光州間が松麗線区に移ったため、光州−潭陽間が改めて「光州線」の線区になったということになります。


 光州線の話からちょっとそれますが、翌1937年、「慶全北部線」は裡里[イリ](=現・益山[イクサン])−順天[スンチョン]間が全通します。「慶全北部線」と松麗線は全羅南道南部の中心都市である順天で接続していたのですが、この開通の際に松麗線の順天−麗水港間が線区替えになり、裡里−順天−麗水港を「全羅線」と変更します。そして順天−松汀里間の路線は「慶全西部線」と名前が変更されます。この路線は釜山方面から延びていた「慶全南線」(京釜線三浪津[サムナンジン]駅−晋州[チンジュ]駅)と連結されて「慶全線」となる計画でしたが、それが実現したのは韓国の独立後のことでした(次ページ参照)。
 ちなみに、これらの路線は全て、朝鮮半島での他の基幹路線と同じ1,435ミリメートルの標準軌で敷設されています。



※2002年に光州市内で開催されていた現代美術展「光州ビエンナーレ2002」の展示会場の一つ、旧南光州駅跡の会場での展示の中の一作品から。この展示は、2000年8月に廃駅となった南光州駅跡地にて、2002年の展示時現在に至るまでの光州市域における鉄道路線の変遷を街の発展と対比させながら視覚的に表したもので、展示の一部として鉄道の開廃業や線路の経路変更などの年表が示されていました。私(管理人)はその年表をノートに書き写したのですが、迂闊にも作者名は書き落してしまいました。また、記憶する限りでは展示の中に参考文献などの記述は無かったようです。



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