■晋三線(開陽−三千浦)の現在



晋三線は植民地時代から大三線(大田−三千浦)の一部として計画があり、日中戦争のさなかに建設がはじまりました。しかし大三線の建設はその後、太平洋戦争の激化に伴う物資の逼迫により建設が中止されます。晋三線が実際に開通したのは独立後のことでした。

晋三線の正式な起点は慶全線の開陽駅ですが、開陽駅よりも一つ西の、慶尚南道西南部の中心都市である晋州(駅)の名前から取られています。1953年にはまず開陽−泗川が開通し、7年後の1965年には泗川−三千浦が開通してはれて晋三線として営業を開始します。しかしながら旅客数の伸び悩みにより赤字が累積していき、全線開通からわずか15年後の1980年に運行を休止することになってしまいました。
たった15年で廃止されてしまうような路線が1965年に開通した一方で「我が」旧光州線と潭陽−金池未成線は道床整備まで至りながら開通には至りませんでした。鉄道建設には様々なファクターが絡み合って、一概に言う事は出来ませんが、私としてはやはり朴大統領時代の嶺南(慶尚道地方)優遇、湖南(全羅道地方)冷遇の地域差別的政策の影響について考えずにはいられません。

さて、休止後、泗川までの区間は晋三線のすぐ傍に位置していた泗川飛行場(現在の泗川空港)に基地を構える韓国空軍の専用線として使われることになりました。昔の地図を見ると、これ以降のいつかの時点で泗川駅の位置も移っているようです。
一方、泗川から三千浦までの区間は港湾施設の専用線になることもなく、1987年に軌道の跡を道路に活用する工事が始まって、鉄道としての命脈を絶たれました。現在では現・泗川駅の南側にわずかに列車の通らない線路が残るのみで、その先は路盤らしい痕跡は一部にしか残っておらず、それ以外では道路の橋梁の一部にかつての鉄道橋の遺構が残るのみです。





2003年1月2日、私は前日釜山の釜山鎮駅(撮影当時、木浦行き・光州行きの統一号列車の発着駅でした。ページ末の追記をご参照ください)近くの旅館に泊まり、翌未明の5時20分の統一号木浦行きに乗って開陽に向かいました。
これだけ早い列車を選んだのは、第一には朝早くから動いて時間を稼ぎたいということがありました。ただ、この日にはもう一つの目的がありました。「China Steam, Freightcar Website」の管理人であるしばたさんがこちらで撮影をされるという情報が事前に入ってきていたのです。というより、ご自身のサイトで日程を公開しておられました。せっかく年始のこの時期に割りと近くまで来られているのだから挨拶ぐらい出来ればと思っていました。ただ、事前にお知らせする余裕が無かったため、本当にお会いできるかどうかは行ってみないと分かりませんでした。

列車が開陽駅に近づき、降りようとして1両目の車輌の中ほどの席から後ろの降車口のほうに歩き始めたところで、車窓の外のホームに大きなレンズの付いたカメラを持って車輌前方にかけていく人の姿が見えました。
状況から見てしばたさんに間違いないと思いあわてて方向転換をして前の後者口に向かいました。降車の一番最後、しばたさんと思われる方とすれ違い、乗車されたのを確認してから声をかけました。さすがに驚かれていたようでしたが、「光潭夢です」と、「東アジア鉄道イソウロウ事務所」の掲示板で使っていたHNを言ったところ(リアル世界でこう名乗ったのは初めてです(^^;)すぐに分かって下さいました。ただ、既に発車時間になっていたため、10秒ほどの挨拶を交わして別れました。「お元気で。」「お疲れさまでした。」

現在、「China Steam, Freightcar Website」で、開陽駅や、このサイトでも訪れた全羅線のオス駅、さらには慶北線の貨物列車などの写真を交えた旅行記を公開中です。当サイトのお手軽写真とはふた味も三味も違う本格的な鉄道写真の味を味わいたい方はぜひ。


しばたさんの乗った列車を見送る

 列車を見送りながら、なんとなく「お疲れさまでした」と言いたくてこの日に合わせたような気がしました。


開陽駅舎
開陽駅のホームから見た駅舎。右のほうに信号てこも見えます(ページ末の追記を御参照下さい)。スナップのつもりで撮っていたら(だからって左下にコートの袖が掛かっているのは言語道断ですが(苦笑))、駅員さんから「早くしてください」と急かされてしまいました。





開陽駅のやや南側(釜山寄り)の踏切から駅構内をのぞきこんだ様子。
右側が今さっき乗ってきた慶全線、そして左側が今回探査する予定の旧晋三線です。

・・・しかし。事前に得ていた「晋三線は全線廃止」との情報とは異なり、枕木こそ慶全線のPC枕木とは異なり木製のままなものの、線路上には最近に列車の通った跡が鈍く銀色に光っていました。
 この事は、実は前日に釜山行きの無窮花号に乗車した際、列車がこの付近を通過するときに最後部デッキから観察して、把握していました。少なくとも、開陽からの旧晋三線の線路は生きているようでした。それならば、どこまで生きているのか、何に使われているのかを確認しなければなりません(なりません、というより私の気が済みません(苦笑))


拡大

上と同じ踏切から反対側を振り返ります。逆光で見えにくいですが、全羅線と(旧)晋三線の軌道(路盤)が分かれていくところ。右の写真は左の写真の中央右寄りの辺り、両線の路盤が分かれていくところを拡大したもの。


この後、線路の上を歩くわけにも行かずに線路から離れて山道を登りました。降りてきた所に切通しの道路があったので降りようとしたところ、そこが線路でした。



切通しの上から覗き込んだところ。やはりレールの上が細く、しかしはっきりと鋼色に輝いています。
周囲に踏み切りはありませんでしたが、線路上まで降りてみると、線路を横切って人の通ったような土の跡が残っていました。



そこから泗川方向へ少し行った所にトンネルがありました。山側の斜面ではつい最近に線路にかかる木の伐採が行われたことが解ります。
今回の小旅行に発つ前までは、地図でこのトンネルを見つけて、楽しみにしていたのですが(何を?)、生きた線路が通っている以上立ち入るわけには行きません・・・

後に知ったことですが、このトンネルでは映画「殺人の追憶」(2003年韓国国内公開、2004年春日本公開)の撮影が行なわれていました。正確な撮影の日程などは分かりませんが、私が訪れたのは撮影から余り日の経たないうちだった可能性があります。木を伐採してあったのは、あるいは撮影のためだったかもしれません。




トンネルを通れないので、トンネルの上のコンクリート舗装の道を登って、息を切らしながら峠を越えました。そして降りてきた所に、鉄道のトンネルの出口がありました。すぐ傍には小さな集落が谷間の小さな土地に広がっていました。


線路に沿って谷を下っていく道路を下りていくと、踏み切りが現れました。
遮断棒の赤色も鮮やかな踏み切りに、もしかしてここで待っていたら列車が来るのでは・・・とすら思いました。実際に汽笛と汽車の音が聞こえてきたときには思わずカメラをONにして待ち構えたのですが・・・山の向こうの慶全線を通った列車の音だったようです(笑)。結局この日はこの線を通る列車には出会えませんでした。

しばらく山を下ります。
途中、駅の跡かな?と思わせる場所もあったのですが傍の家には人が住んでいる様だったので近づきませんでした。



だいぶ谷も開けてきた辺り、右側に広い水田を望む辺りの踏切から、もう一つ先の踏切を眺めて撮った写真。

この踏切の更に3つか4つ先の踏切で、保線作業をしている人たちがいたので、思い切って聞いてみました。面倒くさそうに(笑)、ここは泗川空港からの「特殊貨物」が通る路線で、毎日列車が来るわけじゃない、と教えてくださいました。
「特殊貨物」とは要するに、軍用貨物列車のことを指したのだと思われます。このときはなんとなく「軍関係かな」と思った程度でしたが後で確認できました。


更に少し先の、軌道上にて。付近の住民が線路の上を歩く姿も見られ、のどかな田舎のローカル線、という雰囲気を漂わせていました。


※追記:かつて始発列車も存在した釜山鎮駅は現在は貨物専用駅となり、旅客ホームは全て撤去されました。慶全線の列車の現在の発着駅は釜田(プジョン)駅です。
また、開陽駅を含む通表閉塞区間はその後全て自動システムに更新され、腕木信号やそれを動かす信号てこも撤去されました。開陽駅舎は完全に建て替えられ、写真撮影当時の面影は残っていません。



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