■旧「慶全線」潭陽−金池・未成区間■

金城面−金果面・その2



前頁の川からさらに淳昌方面へと進んでいきます。
橋の向かいの民家から少し行った地点で築堤は田園に還っていましたが、その先に痕跡が残っていました。その地点から、橋の方角を振り返って撮ったところ。
写真左奥の青い、長細い屋根は、川の向こうの堤防際にある牛小屋の屋根です。


さて築堤の延長線上には、炭火焼の焼肉屋が建っていました。



その先を行くと、築堤の跡は途切れていて、工業団地が形成されていました。軌道もその敷地の中で消えてしまったようです。左の写真に写っている道路わきの芝生の土地も、軌道の跡地というわけではありません(将来の道路拡幅に備えた用地ではないかと思います)。




その工業団地の外れに、もしかしたらこれは・・・と思わせるような橋台の跡らしき築造物が残っていました。写真の左下のコンクリートが、それです。・・・でも、全く関係無いかもしれません。

・・・というのも、その先には築堤が残っていて、写真の左上に見えるようにその上に建物が建っているのですが・・・その高さが違いすぎるのです。この築堤の高さなら、橋台ももっと高くないとならないはずです。
・・・しかし、この小さな川の周囲にそれらしき形跡が他に無いのも事実なので、これが鉄道の遺址なのか否かは保留にしておきます。



上の写真の家の裏手へとさらに続いていた築堤。この辺では築堤の上は畑になっているようでした。


(左)築堤の先に遺されていた小さな橋。
右側(金池側)は土が切り取られて、田んぼになっています。
(右)左の写真で橋の右側、盛り土の崩された辺りから見た、橋と築堤の上のようす。




上の写真のさきで、築堤は一部途切れて、そのあとは築堤の跡なのか棚田のあぜなのか分からなくなっています。
その先は徳成里[トクソンニ]という集落に飲み込まれているのですが、家々を越えた先の小川に、未成線の橋が残されていました。


橋のたもと(潭陽側)。潭陽側の築堤は土が取り除かれて橋台の石積みとコンクリートが露出しています。


横から眺めたところ。右側(淳昌方面)の築堤は、藪にはなっているものの盛り土が残っています。
…橋梁部分のコンクリートはやや新しく見えるようでもあります。もしかしたら、1960年代に旧光州線の道床が再整備されたのに合せて、あるいはそれ以降に、新しく架けられたものである可能性もあります。


橋の先の築堤は少し行ったところで途切れていました。築堤全体が植木の用地に使われているようです。



(左)上の築堤の延長線上、ばっさりと抉り取られた築堤の断面が現れました。
(中央)その先は墓地になっていました。見えにくいですが、左の写真の中ほどの小さな潅木が列になって植わっているのが、築堤の跡が現在の墓所を横切っている所です。

上の写真の軌道跡から淳昌・金池方面につづく切通しの跡を眺める。


切通しの先は山が大きく切り開かれていました。道理で墓地の側から見たとき、向こう側が明るく見えたわけです。
かつてはここで採石でもしていたのでしょうか。現在は建設資材置き場になっていました。


(左)資材置き場の先にはまた墓地があり(南側の斜面なので選好されやすいのでしょう)、その先にはまた築堤が続いています。
写真の中ほど、上段が築堤です。道路と並行して、さらに東へと伸びていきます。
(右)その築堤の上から東(淳昌方面)を眺めたところ。


その先の切通し跡の現在の様子(写真左)。並行して走る国道には、右の写真のように道境を示す標識が立っていました。この切通しを境に、未成線の軌道は全羅南道潭陽郡[タミャングン]金城面[クムソンミョン]から、全羅北道淳昌郡[スンチャングン]金果面[クムグァミョン]へ入っていきます。

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