韓国東南部、慶尚北道に、京釜線の金泉(キムチョン)駅と中央線の栄州(ヨンジュ)駅の間を結んでいる、慶北線という路線があります。2004年3月までは金泉−栄州間に3往復の無窮花号列車(全て釜山からの直通列車)と、金泉から店村(チョムチョン)駅までの区間に2往復の統一号列車が運行されていました(週末・休日の臨時列車は除く)が、4月のKTX開業と同時に試行されたダイヤ改訂により、区間運転の統一号がなくなりました。 さて、慶北線が当時の朝鮮鉄道株式会社の路線として全線開業したのは植民地時代の1931年でしたが、当時の営業区間は金泉−栄州ではなく、金泉〜店村〜醸泉〜慶北安東(現在の安東=アンドン)となっていました。現在の路線で言えば金泉と栄州の中間辺りの醸泉附近から、大きく東方向に折れて、山間部を通って安東まで続いていました。ちなみに開業当時、清涼里−(堤川−)栄州−安東−慶州を結ぶ現在の中央線は開通しておらず、旧慶北線は盲腸線として営業していた事になります。 (慶北線については、「韓国の廃線・鉄道あれこれ」で触れております。) 1943年ごろ、朝鮮総督府はこの(旧)慶北線のうち、店村−慶北安東間を不要不急の路線として線路を撤去し、軍需物資の供給に当てることとします。その結果、慶北線は金泉−店村間のみの線路が残ったままで、1945年の日本の敗戦を迎えることになりました。 1962年、当時の朴正熙政権は、慶北線の再建に当たってかつてのルートを変更し、店村−醸泉−栄州の新たな線路を建設することを決定します。変更の理由にはいろいろあると思われますが、栄州は沿線に炭鉱などの資源生産地を抱える嶺東線の分岐駅でもあるため、輸送体系の面からは好ましかったのかもしれません。 ともかく、この決定により休止状態にあった旧慶北線の区間は、正式に廃止されることになりました。
廃止後の実情については、まだ良く調べがついていません。特に駅名の重なる店村−醸泉間については、旧線と新線で同名駅間でも距離が違うこと、また鉄道庁発行の資料には店村−醸泉−栄州の路盤を新たに整備したとあることから、一部現在線と並行して旧線が存在した可能性や、旧醸泉駅が現在とは異なる場所にあった可能性がありますが、この辺りについても未調査です。 今回は新旧線の経路がはっきり異なる醸泉以東の区間のうち、80年代の地形図に旧線の跡が比較的はっきりと見て取れる安東−豊山(プンサン)間を、2004年1月に踏査した際の写真からいくつかを選んで掲載します。 2004年4月のダイヤ改訂により、この統一号列車も今はもう昔話の中へと消えていってしまいました。 安東市内、現在の安東駅から西へ数百メートル離れた辺りの街路の様子です。この辺りは完全に市街化されていて、翌日の午前中にこの辺りを歩き回った際にも痕跡らしきものは見つけられませんでした。 駐屯地の敷地が終わり、大きな道路との交差点を越えて行くと、ようやく旧線の面影の残る道が現われました。
そして、その先の辺りから旧線跡の道路は左へカーブしながら坂を下っていきます。 これぞ廃線跡といえそうな切通しとカーブ。 坂の途中。敷設当時削り取られた法面にも、今はすっかり木々が生い茂っています。 ・・・いや、植えたのかも。 更に下った地点で、後ろを振り返ってみたところ。日陰のためか路肩の溝にたまった水が凍り付いていて、そこから溶け出した水のせいで路面が濡れています。 ようやく坂を下り終えると、道は平坦になっていきます。
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