韓国の廃線・鉄道あれこれ

韓国の廃線や鉄道について馴染みのない方の為に、これまでに知っている知識をいくつか、まとめてみました。

韓国全域の鉄道と旧光州線の略図はこちらをご参照ください。なお、この画像の著作権は白い地図工房と本サイトが所有しています。規定によって一切の転載及びその他の著作権に抵触する行為が禁止されていますのでご注意ください。



■韓国の廃線あれこれ

水仁線
水驪線
安東付近の廃線=旧慶北線
正東津の北方の廃線/東海線
全羅線旧徳津駅
大三線
金剛山電気鉄道
咸平軌道
首都圏の「電鉄線」について

■韓国の鉄道・廃線ネット状況 NEW
■韓国の廃線に関する書籍について NEW




水仁線

日本人にいちばん有名な韓国の廃線は、ネットを見る限りでは水仁[スイン]線のようです。京畿道の道庁所在地である水原[スウォン]と、ソウル西方の港町仁川[インチョン]の間を結んでいた、営業キロ52.0kmの鉄道で、かつては沿線の塩田で生産された塩を運ぶラインとして活躍していたといいます。しかしながら、塩田の衰退や利用者の減少に伴って仁川方面から徐々に休止、廃止となっていき、確か1995年に最後の区間が休止となった路線ですが、今までに数件、日本の個人サイトで水仁線の記事を目にした事があります。ナローゲージ(線路の幅が狭く、列車も小さめの、いわゆる軽便鉄道の規格で作られた路線)だったことも人気の一因でしょうか。
現在、仁川−水原間に新しく標準軌・複線の電鉄線(下註)を建設するという建設が始まっているらしく、残された旧線区間もいずれは・・・いえ、もうすでに撤去が行われているかもしれません。住宅密集地域は、旧軌道跡を拡張できずに地下あるいは別ルートというケースが多いとは思いますが。

(2003.1.6追加)水仁線の廃線跡を丹念に辿って写真で記録した、韓国のウェブページが見つかりました(情報元:「歓迎光臨台湾軽便鉄路」掲示板のなまはげ様(運営者)の投稿)。参考までにここで紹介します。

“安山には水仁線が通っていた。”
“水仁線の痕跡を辿った。”(どちらも韓国語)



※電鉄線:通勤列車の仕様で運行される首都(ソウル)通勤圏の電化の鉄道路線のこと。ソウル市内の地下鉄もこれに含まれるため、首都圏で「地下鉄」というとこの電鉄線全体を指す場合もある。現在首都通勤圏では国鉄も含めて4つの電鉄線運営団体(いずれも公営)があるが、「電鉄線」内の運賃は全体で一つの運賃徴収システムに組み込まれているため、たとえ運営主体が違う路線間の乗り換えでも、乗り換えの際の初乗り料金を取られない(もちろん乗車距離に応じて運賃は高くなるが)。このため、日本の大都市圏の鉄道と違い、初乗り料金を払うこと無しに首都圏内の長距離の移動が可能。もともとの料金水準が安いこともあって、東京とソウルとの交通費の格差は物価のそれを遥かに上回る。
なお、この「電鉄線」に含まれない国鉄の路線の場合、基本的に、同じ国鉄でも「電鉄線」と一般の国鉄線とでは乗り換えの際に初乗り料金がかかる。例えば京釜線のソウル−水原間(追記:2003年4月30日に水原〜餅店の約5kmの区間で電鉄線が延長開業)の場合、「電鉄線」と一般の国鉄線との複々線になっているが、それぞれ料金は別で、乗換えの際には一旦改札を出なければならない。



水驪線
水仁線の陰であまり有名ではないようなのがこの水驪[スヨ]線です。それもそのはずで廃止時期が1972年3月と早かったためだと思いますが、この路線も水仁線と同じナローゲージ(762ミリ)でした。水原から、現在は民俗村やエバーランドで有名な龍仁[ヨンイン]、焼き物の郷として日本でも知られている利川[イチョン]を経由し、東の驪州[ヨジュ]という町までを結んでいた、73.4kmにわたる鉄道でした。植民地時代当時は、水原駅で連絡していた水原線と同じ民間会社(朝鮮鉄道)が運営しており、当時は驪州一帯で獲れた米を仁川港経由で日本「内地」へ輸出するための路線として役割を果たしていたのですが、植民地支配からの解放とともにその大きな役割が消失したことから利用価値は下がり続け、廃線に至りました。驪州から、もう少し東へ延長されれば中央線の原州まで達したと思われるのですが、ナロウゲージのせいもあってかそれはかないませんでした。ちなみにナローゲージから標準軌に転換された線としては現在の国鉄忠北線(鳥致院−鳳陽)等があります。
参考までに、韓国鉄道庁のHPによれば、ソウル南部に隣接する城南市からこの驪州まで電鉄線を敷設する計画があるとのことです。
※追記:2003年に鉄道庁が発表した廃線敷地等の売却予定の土地の中に、この水驪線の廃線跡の土地が含まれていることが判明しました。ということは公式的には譲渡・転用されないままの土地が現在も残っているという事になります。この水驪線も含め、売却表には廃線跡地などの現地の地名までもが記されており、今後早いうちに探訪をする際には重要な手がかりとなる可能性があります。ただし売却後は本格的に転用が進行する可能性が大きいので、時間的猶予はありませんが…

ちなみに、ナローゲージと言えば、現在の北朝鮮に属する地域には、植民地期の資料には1945年2月の時点で営業中のものだけで(つまり、供出により休止中のものは除いて)合計で500kmを越えるナローゲージの路線があったとされるのですが、今はどうなっているのでしょうか。(11.17)


安東付近の廃線=旧慶北線
韓国の中東部、慶尚北道の安東[アンドン]は韓国内でも有名な両班(ヤンバン)の郷として、日本にも多少知られているかと思いますが――日韓合作TVドラマ「フレンズ」でウォンビンが演じた主人公の韓国人青年の故郷がここという設定でした――この安東を通る中央線の安東駅から西に向かって、かつて鉄路が伸びていました。
国鉄慶北線という路線が現在あります。この路線は京釜線の金泉と中央線の栄州とを結んで、慶尚北道の西部を南北に貫く路線ですが、植民地時代には栄州ではなく安東とを結ぶ路線でした。現在の路線がイェチョン(醴泉)の辺りから北北東へ向かっているのに対し、かつての慶北線は醴泉から、ほぼ真東(やや南)の安東へと繋がっていました。もともとは朝鮮最大の民間鉄道会社、朝鮮鉄道(朝鉄)が敷設し、1931年に全線が開通した路線でしたが、1940年に総督府が買収し、国有鉄道になったものです。ところが太平洋戦争の戦時中、軍需への供出のため、慶北線のほぼ北半分に当る店村[チョムチョン]−安東間が休止となり、線路が撤去・収用されてしまいました。この過程は、旧光州線と同じです。同様のことは朝鮮半島の他の路線でもありましたし、日本のローカル線でもそのようにして線路を失い休止になったものがいくつもあったそうです。
終戦=解放後、しばらくの間撤去区間はそのままで置かれていたようです。ところがどういう意思決定の経緯があったものか、1962年5月、朴正熙大統領の“革命政府”は店村−安東間の路盤を再整備して線路を再敷設するのではなく、新たに店村−醴泉−栄州を結ぶ鉄道の新設工事に着手しました。栄州というのは安東よりも北にある中央線沿線の街で、解放後に開通した嶺東線の分岐駅でもあります。そして4年後の1966年1月には店村−醴泉間28.9kmが開通(ちなみに旧線の店村−醴泉間は25.5km)。同年10月10日に同醴泉−栄州間が完工し、11月9日には開通式が行われ、朴正熙大統領も出席してテープカットを行いました。
というわけで、店村−醴泉−安東間には植民地期の廃線=旧慶北線が存在するというわけです・・・もっとも、詳しい現状については行ってみない事には分かりませんが。

追記:2004年1月に一部区間を踏査しました。その結果の一部を現在編集中です。こちらをご参照ください。



正東津の北方の廃線/東海北部線の路盤
嶺東線の正東津[チョンドンジン]という駅は、駅のすぐ隣が日本海に面した砂浜になっています。韓国のTVドラマ「砂時計」のロケ地として一躍観光名所になった駅として、日本のガイドブックなどでも取り上げられていますが、その正東津駅の北、嶺東線の終着駅である江陵[カンヌン]駅から、かつてはそれより北東の鏡浦台[キョンポデ]という海岸沿いの、湖がある所まで線路が延びていたようです。私はいちど鏡浦台に行った事があるのですが、そのときはこの廃線のことは知りませんでした。多分、知らずに線路の跡の近くを歩いていたのでしょう。もう一度行ってみたいと思うのですが・・・
実は、この鏡浦台の先へと、つまり北朝鮮との鉄路を繋げるための「東海線」の北部分・「東海北部線」の建設工事が、もしかしたら既に始まっているかもしれないのです。この「東海線」は日本の植民地時代に計画され(ちなみに、名称はその頃から「東海」線でした――朝鮮半島の日本海側の地域名というような扱いだったのでしょうか)、その一部が建設されたものの、272.5キロという膨大な未開通区間を残しました。その後、つまり韓国の独立後、一部区間は建設されたものの、現在もその部分的な区間だけが運行されている路線です。実は「東海北部線」という路線は朝鮮戦争勃発前までは、現在の北朝鮮の江原道安辺(北朝鮮側江原道の道庁所在地・元山市の南)から、現在の軍事境界線を越えて現韓国域内の襄陽[ヤンヤン]という町まで延びていました。朝鮮戦争休戦後、境界線から南の襄陽までの区間はずっと運営休止状態のまま、現在に至っています。なお、現在の嶺東線の墨湖以北の区間(及び、東海線の区間には該当しないが栄州−道渓間など)は独立以降に開通したものです。


(2.3)ちなみにこの東海線の未成区間ですが、三捗−浦項間の東海中部線の未成区間に関して、浦項駅の北方、米軍施設のさらに北に行った所に、未開通のまま現在は道路になっているトンネルや軌道跡が残っています。「未来鉄道DB」の運営者で、もう一つの鉄道関連サイトの運営者でもあるハン・ウジン様より情報を頂きました。
参考サイト:「ハンウジンの鉄道の話」(韓国語)

(2003.9)<追記>最近「韓国鉄道旅行案内」の情報掲示板で拝読した情報によりますと、東海線の連結工事は軍事境界線の近くのごくわずかな区間でのみ施工され、それより以南の区間では事実上手付かずの状態だそうです。軍事境界線−襄陽間は休止状態にある旧東海北部線の路盤や、旧襄陽駅のホームなどが残っていますが、路盤の一部は公園等に転用されているということです。また、襄陽より南の区間は未成線としての路盤の跡が同様に残されているということです。ただし投稿されていた記事によれば、路盤が農道や駐車場等に転用されたり、橋が自動車&歩行者用に転用されたりしていて、そのままでの鉄道への再転用は難しい状況だとのことです。


全羅線旧徳津駅

食の都として名高い全羅北道・全州[チョンジュ]のバスターミナルから益山、郡山といった全羅北道西北部の都市や、さらに北の忠清南道の論山、扶余といった都市にバスで向かう途中で、徳津という全州市内の停留所に停まります。
ところが、この停留所がなぜか、駅前ロータリーのように中央に植え込みが造られている大きな広場になっています。それもそのはずで、全羅線が1981年に現在の経路に移る以前は、この徳津に同名の徳津[トクチン]駅が所在しました。地図で見ると、かつて駅のあった所に今は小さな住宅団地が造成されているのですが、その敷地がまるで駅そのままの紡錘型(?)になっています。ただし再開発が行われているため、鉄道施設自体の名残はほとんど残っていませんが。ちなみに、全州駅もこの際に移転していますが、元の駅舎の位置はどうやら現在の全州市庁の所在地に当たるようです。
(追記)この場所を2003年の2月1日、旧正月の日に探訪してきました。そのうちに写真をアップしたいと思います(2.3)。


大三線
ソウルから南下してきた京釜線は大田[テジョン]で湖南線と分岐し、それぞれが大雑把に言って東南と西南に進路を変え、地図でいうと逆Yの字に分かれて行きます。実は植民地時代に、この大田からほぼ真南に向かって線路を建設する計画がありました。慶尚北道・南道の山間部を縦断して南海岸の三千浦[サムチョンポ](現在の泗川[サチョン]市三千浦;泗川市庁所在地)まで敷設する計画でした。戦時下の1942年、南端と北端の区間から建設に取り掛かったものの、結局どの区間も開通することなく植民地支配の終焉を迎えました。後に晋三線となる開陽−三千浦間はこの時点で路盤が完成していたようです。未成区間212キロは日帝期(植民地期)では当時の東海線計画線に次ぐ長さでした。
ちなみに光麗線(=現在の全羅線麗水−順天間と慶全線順天−松汀里間)を建設した南朝鮮鉄道の社長だった根津嘉一郎(東武や南海などの私鉄を興したことで有名)は当初、麗水よりも三千浦の路線を先に建設することを考えていたようで、それを聞きつけた麗水在住の有力者たちが根津の元へ陳情し、結果として麗水の方に鉄道が誘致された、という記録が残っています(「旧光州線について」参照)。
独立後、その経由地であった慶尚南道の晋州(チンジュ)=慶全線晋州駅が所在=から三千浦まで、晋三線(正確には、開陽−三千浦)が開通しますが、赤字のため1980年に旅客営業を停止、開陽〜泗川間は泗川空港の韓国空軍の専用線となり、泗川〜三千浦は廃止されて道路になっています。
そして最近、かつての大三線の経路をなぞるかのように大田−晋州間を通る大田−統営間高速道路が開通しました。韓国の交通の今を端的に物語る状況です。
(2003.1.6訂正)(2003.7.27 植民地時代の工事着工の情報について追加)
(追記)晋三線の2003年1月現在の状況を踏査した記録はこちらです。(2.3)


金剛山電気鉄道
韓国の東海岸から船で北朝鮮域内にある名勝・金剛山へのツアーも話題に上らなくなって久しいですが、日本の植民地時代にはここへ観光用の列車が通っていました。それが金剛山電気鉄道です。起点を当時の京元線の鉄原(現在は非武装地域に近いため運行停止状態)におき、内金剛駅までの116.6kmを結ぶ堂々たる鉄道でした。1921年に起工して1924年に鉄原-金化間を開業して営業を開始し、7年後の1931年に全通しました。もともと敷設地域付近のダム・発電所建設とともに進められた事業で、開業7ヵ月後には一部区間で電車の運行が始まっていたといいます。最終的には全線が電化されて運行されました。
元々水力発電とセットになった大きな事業の一環として進められた金剛山電鉄でしたが、業績の方はそれほど思わしくなかったようです。そして、戦時下の1944年10月に、終点の内金剛から途中駅の昌道までが軍需のため供出にまわされて運休になってしまいます。その後、解放後に朝鮮戦争のため休止、休戦後も休戦ラインがかつての鉄路を分断する形になったため、韓国側からの運行は行われないままとなりました。現在でも、旧鉄原駅付近を通る非武装地帯ツアーでは、かつての金剛山電気鉄道の軌道がはっきりと確認できるようです。
北朝鮮に属する地域内では一昔前まで運行されていたとか、現在も一部で使用されているとも言われますが未確認です。

この金剛山電気鉄道の項目(2003.1.9作成)は、以下のページの情報等を参考にしました:
金剛山電気鉄道についてのりまき・ふとまきのページ(詳細はリンクページ参照)のコンテンツの一つ。
金剛山電気鉄道:「ハンジュ博覧会」のコンテンツの一つ。


咸平軌道

湖南線の咸平〔ハンピョン〕駅(咸平郡厳多面)は咸平郡内の唯一の鉄道駅ですが、同郡の中心地である咸平邑からはやや離れた所に所在しています。この駅は2001年に現在の新線に移る以前は、「鶴橋〔ハッキョ〕」という駅でした(旧鶴橋&(新)咸平駅編参照)。
この鶴橋駅から咸平邑の中心地までを結ぶ軌道線の運営会社が1925年に設立され、27年(昭和2年)に営業を開始しました。この「咸平軌道(株)」は当時の植民地統治下の朝鮮でも初めて、日本人ではなく現地の有志によって設立されました。その後、1941年に京城軌道に吸収合併されますが、引き続き咸平線として営業を続けました。
資料によれば、この路線は軌間1,067mmの軌道線で、鶴橋から咸平までの6.1kmを約30分で結び、車輌は狭軌用のガソリンカーが運行されていたと、当時を知る現地の方の証言にはあります。また『朝鮮交通史』によれば、昭和14年度(1939)にはガソリン機関車(2両)や客車(3両)のほかに、軽油動車(2両)や貨車(4両)も保有していました。
1945年の解放後、運行が一時停止されますが、当時の従業員代表の方の努力等により当時軍政を敷いていた米軍当局から燃料の供給を受け、運行を再開します。
しかしながら、この軌道線も線路や車輌の老朽化とモータリゼーションという大きな波には勝てず、かつ総延長が短かったことから経営が逼迫した結果、1960年12月28日付で廃止となりました。廃止直後に施設は全て撤去されたため、現存する遺存物はありません。現在、同区間には6車線の国道が整備され、当時の面影を偲ぶものはありませんが、この地域では廃止当時に代替輸送のために設立されたバス路線が現在も運行を続けています。

※この項目に関しては、当時韓国在住でいらっしゃった水野俊平様より、ご自身が執筆された咸平軌道に関するレポートを廃線関連の資料としてご提供いただきました。改めて御礼を申し上げます。




■韓国の鉄道・廃線ネット状況

今まで分かっている個別の情報は「韓国の廃線について」に纏めてあります。全体としての情勢はきちんとは把握していませんが、だいたい80年代以降の経済成長に伴って韓国国鉄でも多くの区間で経路切替・改良工事が盛んになってきたようです。

インターネットの状況については、韓国語の検索エンジンで「廃線(ペソン)」と入力して検索しても当るのは同音の「廃船」だったり、廃線の跡地をどう再利用するかという話題だったりで、YAHOO!のカテゴリに「鉄道に関する諸情報>廃線」がある日本(あきらかにその方が特異なのでしょうが)とはかけ離れた状況のようです。・・・ただ、それでもこのサイトの運営を始めて以降、今までにいくつか廃線を扱っているサイトに出会うことは出来ました。
 日本でも韓国の鉄道ならともかく、廃線を扱っているというサイトはほとんど見当たらないのが実情でした(水仁線に限定すれば、いくつか見当たるようですが)
ですが、2004年2月、「百年の鉄道旅行」というサイトが登場しました。『朝鮮半島、中国、欧州、米国の鉄道・船に関する』鉄道の黄金時代の輝きを呼び起こすような各種資料、写真、探訪録を扱ったサイトですが、ことに朝鮮半島の鉄道に関する資料が(2004年9月現在では)最も充実しています。廃線記録については90年代前半に韓国の各地(当サイトで扱っていない路線多数)を訪れて収集した写真と情報が路線ごとに収録されており、資料的価値の非常に高い内容となっています。正直、このサイトを始めた頃はこんな高水準のサイトが登場するとは思っても見ませんでした。
もし、これ以外にも韓国の廃線について扱っているサイトをご存知の方は、当サイトの掲示板等に情報をお寄せくださると幸いです。


■書籍について

韓国の廃線・休止線については、下の参考文献に掲げた日韓鉄道同好会会誌や、それ以外の鉄道専門誌等でも何度か寄稿やレポートが発表されているようです。それについては、申し訳ありませんがあまりよく把握しておりません。
書籍に関しては、鉄道専門誌の一つである「鉄道ジャーナル」に連載されたレポートを元に、南北の軍事境界線を跨ぐ4本の鉄道――京義線、京元線、金剛山電気鉄道、東海北部線――に付いて、文献調査と、韓国・北朝鮮にまたがる現地踏査を元に詳細かつ分かりやすくレポートされた書籍『鉄馬は走りたい 南北朝鮮分断鉄道に乗る』(小牟田哲彦著・草思社)が2004年5月に刊行されました。当サイトがカバーしていない地域の鉄道・廃線(休止線)について極めてよくまとめられているというだけでなく、一から丁寧に解説してあるため韓国の鉄道や廃線に関してあまり知識がない、という方にもお薦めの一冊です。



主な参考資料:
『韓国鉄道80年略史』韓国鉄道庁;1979.
『写真で見た韓国鉄道100年』韓国鉄道庁;1999.
『朝鮮交通回顧録』鮮交会編(日本)
『朝鮮交通史』鮮交会編(日本)
水野俊平「消えた「咸平軌道」を追え!」『日韓鉄道ひろば』(日韓鉄道同好会会誌)15号、日韓鉄道同好会;1999.





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