■旧「慶全線」潭陽−金池・未成区間■

淳昌邑[スンチャンウプ]−豊山面[プンサンミョン]・その2 橋脚の列など
(2003.1.8撮影)



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淳昌郡保険医療院の前から水田の上に降りた築堤上の道は、カジャムKajam(佳岑)という集落へ向かって真っ直ぐに伸びていました。
写真の右にある石碑は「カジャムマウル」(“マウル”は村;部落というほどの意味)と彫られたムラへの入口の石標。現在、韓国の地方の農村では集落ごとに入口にこうした石標を立てている所がかなり一般的です。

クリックするとインターチェンジ敷地内の旧軌道跡の様子を表示

左:幹線道路の下をくぐるところ。築堤は立体交差のために低く削られています。

右:幹線道路をくぐったさらに先で、光州と大邱を結ぶ88高速道路の淳昌I.C.の下をくぐるところ。左と違ってインターチェンジの道路が高いため、元の築堤はそのままの高さのまま削られていません。





インターチェンジをくぐると佳岑マウルの家々が立ち並んでいます(写真は省略)。その先は、道が築堤から降りていて、築堤は畑地になっていました。
そしてその先の川を渡る地点に、未成線の橋台と橋脚の遺構が残されていました。

※この写真は2003年に撮影したものですが、2014年2月時点でgoogle mapの航空写真を見ると、この築堤を含め前後の区間の未成線跡地上に、片側1車線以上の幅の道路「佳岑路」が新たに完成しています。





沙川(サチョン)という川にかかる橋脚の列と、橋台の写真です。
鉄道が実際に開通し、独立後の沿線住民の足となったならともかく、今となってはこれらの鉄道施設跡も日本支配時代の、戦時体制下での準軍事建造物の遺跡に分類されざるを得ません。

※前述のとおり、現在はここに車道が通っており、この地点にも車道橋が架けられています。実際の状況は行ってみなければわかりませんが、写真の橋脚の幅と現在の航空写真に写っている道路の幅とを比べるに、この橋脚・橋台が現在も残っている可能性は、残念ながら低そうです。




この後、対岸の地点に行くのに往復20分近くをかけて上流にある橋を渡らなければなりませんでした。


対岸から見た橋の遺構。


その先の築堤上の道。右側の山を避けるように左へとカーブしていきます。



そしてその先で、未成線の築堤は左から合流してきた道路に飲み込まれる形になっていました。


現在の道路の風景。このあたりは、かつての未成線の路盤の上に造られたようです。写真の、道路の左側にある石碑に1994年から1996年にかけてこの道路が整備されたことが記されていました(石碑の表面の拡大写真はこちら)。



そこからしばらくこの道を行ったところ、川を渡るところがあったので雪の中を川岸まで降りてみました。
90年代に造られたにしては古すぎる感じの二連アーチのコンクリ橋、アーチの卵形も別のところで見た橋にそっくりです。

ただ、単線であった未成線の橋にしては幅が広いのが気になります。未成線の遺構ではないのか。あるいは、この橋の上か前後に、駅が建設される予定だったことも考えられます。
道路が完全に整備されている上に雪に覆われていたせいもあって、遺構らしきものは全く目に付きませんでしたが。


この辺りが露光の限界で、写真はここまででした。次はこの橋の地点を起点に、未成線沿線随一の大河である蟾津江(ソムジンガン)を渡る地点を目指す予定です。





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